しかのブログ

自分の頭の中身や感情を知る日記、日々メモ化。

私の怒りとむちゃ食い

はームカっとした。

「もう3〇歳なのに?」いう言葉を言われてムカッとした。

自分の方向性がわからなくなり、このまま就労訓練をどう続けていけばいいのかわからなくなった。一旦立ち止まりたい旨の気持ちを言葉にしたらこう言われた。

「もう3〇歳なのに」。

「まだまだ3〇だから!」「まだ若い!」と励ましてくれた人に掌を返されたように扱われて腹立たしかった。ムカついた。品のない言い方だと思った。

言われた瞬間は苦笑いで対処したけど、言葉で言い返したかった。「仕返し」したかった。悔しかった。「傷つくなぁ」とか「グサッと来ます」なり自分の感情を表す言葉を言えばよかったのかな。これだ!これは口にしてもいいという言葉も文章も思いつかず、余計な事は言わない方が良いのだろうと思ってモヤっとした感情を包んで帰宅した。

過食はしなかった。出来なかった。感情で食べても自分の心は食べ物で救われないし、甘いもので脳を酔わす事は出来ても酩酊から覚めればまたこの現実に直面するから。

甘いもので酔っても一瞬の酩酊、一瞬の快楽しかない。甘いもので一時凌ぎに感情を麻痺させても、この自分の現実は立ち行かなくなった。誤魔化されなくなった。

いくら胃に食べ物を詰め込んでも、苦しくなった。詰め込んで得られる「快楽」と詰め込んだ直後に襲ってくる「苦しさ」の方が大きいと実感するようになってからむちゃ食いの頻度、量が変化したように思う。

食べようが、散財しようが自分の背負ってしまったこの運命を真正面から受け止めないと「ご褒美」にならなくなった。自分の直面している現実の苦しさから逃げようと買い物をしたりしても、美味しいものと言われている物を口にしたとしても「苦しさ」も一緒に買ったり、味わったりしているような心持ちになってしまう。

親しい友人にこの一件を話した。親しい数人に話してもまだ私は「悔しい」と感じている。怒りがまだ残っていた。他人から傷つけられた(ように感じた)からといって、関係のない人に八つ当たりする訳にもいかない事を知っている。

だから当り散らさなかっただけ少々はマシな私だった。「言われていやだったんだ~」「不愉快な気持ちになった」という自分の感情を言葉にして伝えた。

怒りという感情には包まず話していいんだと、私の心の中に在る幼稚な自分に諭している。いっつも「怒り」メインにして相手にぶつけないと誰も私の話なんて聞いてくれないと思っていた。怒りを抱えて、相手に「怒ってるんだよー」とわざわざ表現しないと自分の困ってるサインは誰にもわからないんだと思っていた。

淡々と自分の気持ちを言葉にし、相手に伝える事の術を知らなかった。

怒ってもいいという事は「怒りを爆発させること」「感情を大爆発させる事」とは違う。自分の心に「怒り」という不愉快で苦しさを伴う感情は湧きおこってもいい。

「今私はすごく母に不躾な言葉を投げられて嫌な思いをしている」「すごく腹が立っているんだ」「うわぁ、怒ってる時は相手を罵ってやりたい」「すごいムカつく!殴ってやりたい」「殴って黙らせてやりたい」「殺したい」..こんな汚い言葉を出して申し訳ないですが、凄まじく怒ってる時の私の心は罵詈雑言で舞っている。

ただ今のところ、「言わない」。怒ってるけど当たり散らさない事を実践中。

凄まじい「怒り」を味わっている。「私は今すっごい怒ってるなぁ」「相手を酷く罵ってやりたい...と思っているなぁ。仕方ないよなぁ、だってそれぐらい腹立ったいるって事は私結構傷ついてるんだなぁ」「殴りたい、殴りたい!今そんな風に感じてるなぁ...こんな激しい怒りを抱えていると苦しいよな」等など。

打っていて、目にグサグサ刺さる言葉を羅列し、恥ずかしいような情けないような気持ちになるけどまだまだこんなもんなんです。

自分の抱えてる「怒り」に対応する対処法が今これ。今のところ自分で対処法のバリエーションも少なく、経験も少ない。

ただ怒りを抑え込んで「我慢」はしたくない。

自分の自然に湧き起こった感情を「抑圧」はしたくない。私の心に湧き起こってくる全ての感情は存在していいものだと言い聞かせている。良い感情だけでなく、汚い感情、時に自分を苦しめる感情も自分の中に在っていい。良い感情も味わう。聞くに堪えない感情も認める。出てきたら見ないフリはしない、それも味わいきる。

食欲は出て当たり前のもの。美味しいものや自分の好きなものを見て「食べたいな、食べたいな」と思うように「怒り」も「喜び」も出てきて当たり前のもの。

かと言って食べたい物を「むちゃ食い」していい訳ではない。怒りを感じてもいいけど「爆発」させたり、感情を噴火させることも良い事ではない。

 

こういう事を日々よく考えて、疲弊している。

考え過ぎて疲弊している。