しかのブログ

自分の頭の中身や感情を知る日記、日々メモ化。

失言

頑張っている人の努力に対して「空回っていますね」と発言してしまった。

無意識に出た不用意な言葉だった。「空回ってる」と私が表現した人はその場にはいなかったものの聞いてる人から注意を促された。注意されるまで「不用意」「不愉快な言葉」を相手に発してると気づかなかった。

目で見て、耳で聞いて、人とのやりとりで感じた「感覚」を頭でチョイスして口からその言葉を発するものだから「相手が聞いてどう感じる」まで深く計算に入れなった。

自分が傷んで知った。

自分が相手を無意識に傷つけることもあるんだということ。それに対してどういうフォローをすれば良いのかという事が今の自分に求められ、必要なのかという事。

傷つけたことを素直に認め、その場に相手がいれば即座に謝る。相手が聞く余裕があれば謝る。相手が不愉快になっていて聞く余裕がないとか怒っていたりいていれば時期を待つ。相手の怒りが収まるまで待つ。

謝れない状況、謝る機会を得られない時はこの体験を「糧」にして次に活かすしかない。

再び同じような事が起こらないように自分で努力する。

「決して相手を傷つけまい」と優等生ぶった発言をしたり、本来の自分を抑圧してモノを喋るこれまでより「誤りを認めてどう修復していくか」に心を砕いていく自分に成長していきたい。

言葉のチョイスは変わっていると最近言われる、表現が人とちょっと変わっていると言われる。今回注意・指摘されて元の「無難な」私に引き返すのは嫌だ。

指摘されることが「恥」だと思っていた。人から注意されるのが恥ずかしいことだと思っている。もっと言うと「人にわからない事を聞くことが恥」だと思い込んでいる。

人に注意されたり、指摘される事は多いなる恥だと思い込んで悩んでいる。

自分でやれることはちっぽけなのにプライドだけは高くて、恥を出来るだけかかないように、恥を避けて生きてきた。

社会での対人関係を避けて通って引きこもって生きてきたので場数が足りないのだ。経験数が足りない、経験値が足りない。それで尚日々の些細な事に過剰に反応してしまう。

自分が傷つけられた時は騒ぐ。自分の傷には敏感なのだ。

自分が傷つけられた時も「怒り」という衣で包まずに表現していい。傷ついたという表現方法を使う。

怒りで表現しなくても穏やかに伝えれば相手は言葉で伝わる。自分が傷ついた時も再び同じことが起こらないようにお願いする。その言葉や表現方法に相手への「責め」も「非難」も必要ない。

やってみるしかない。恥をかくしかない。自分が間違っていた時には謝る。

自分の非を認める事は恥ずかしいことじゃない。恥ずかしくないからと言って行動する理由にもしたくない。

体験を積むこと。恥をかくこと。自分の非は素直に認める事。

わからないことはすぐに聞くこと。

注意・指摘されたら「ありがとう」と前向きに捉えるしかない。

 

そんなこんなで、不用意な発言から気持ちを切り替えることが出来ずに24時間悶々と同じことを悩み続けております。でも切り替えるしか現状を変えることは出来ないし行動するしかないと言い聞かせてブログを書いてる、ブログに吐いてる。

昨日は夕食を作って食べてからブロックチョコとメロンパンを食べてた。その後家族から貰ったあんぱんを手にした。

ブロックチョコとメロンパンは美味しかった。あんぱんは感情で食べていたように思う。

自分の痛みとして実感しないと学ばないのだ。はぁ...。体感として学ぶ、というのかな。私だって空回ってる。自分が受け入れてる言葉を人に投げても相手は私と同じように受け入れられない言葉ってたくさんあるんだ。

言葉を喋りたい時って「ゲロ」みたいに反射的に出てしまう時や本能的に出したい時に駆られて発してしまう時も多くて、それが意識できる時には一旦吐き出したゲロのような言葉や文章を相手に投げる前に自分の脳に送り込んでジャッジしてもらうのが良いのかな。

自分の頭がわからなければ、相手や他人に言ってもらう。非礼をしたなら即座に「ごめんなさい」と謝って修正する。

それと相手との関係性を観て、投げる。

親しい人やそうでない人、親しくなりそうな人等いろいろな立ち位置に様々な人が自分のまわりにいる。いてくれている。

プライド高い私恥ずかしいなぁ...。